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第一章「僕」

第一章「僕」


 八月下旬、午後四時の蒸した繁華街の空には、その季節と時間に相応しいといえる夕立用の歪な

黒い雲がもこもこと立ち込めてきていた。雲脚はとてつもなく速く、遠くの方からはゴロゴロと雷

の音も聞こえていた。
 

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 道行く人は、皆、少し顔を強張らせ、早足で、屋根のあるところへ急いでいるようだった。
 
 何とかもってくれよと思っているうちに、案の定、ポツリポツリと大粒の水滴が降ってきた。

 
 どんどんと道路上の黒い斑点がその勢力を拡大していく。

 一瞬、黒い空が白い閃光に包まれ、空が割れたかと思えるような雷の怒号が街を襲った。

 
 正にあっという間、強烈な雨がこの空間を制圧した。

 
 僕は当座の雨避けにショルダーバッグを頭の上に持ち上げ、ダッシュしようとしたが、たまたま

斜め前方の書店の看板が視界に入り、そこに一時避難することに決めた。

 
 自動ドアが開き、中に入ってみれば、狭い店内である。先客は三人だけだが、それでも窮屈な感

じがした。レジでは四十代半ば位の男性店員が一人、何かのファイルを開き、難しげな表情でじっ

とそれを見つめていた。
 
 
 さて、僕は元々あまり本を読まない人間であった。小説なんて、正直いって自分から読もうと思

って読んだ記憶がなかった。漫画はそこそこ読む、というか、見る感じ。パソコンは一応持ってい

るものの、ゲームやインターネットで使うくらいで、C言語だのJAVAだのといったプログラミ

ングを勉強してみたいとは思わない。要するに深く追求する気はなかったし、メールもほとんど使

ってはいなかった。スマホは持っているのが苦痛なくらい・・・。音楽などにもあまり興味がなく、

ファッションに気を遣うのはちょっと恥ずかしい感じがしていた。

 
 小さい頃からスポーツにでも打ち込んでこれたなら一番良かったんだろうなと自分でも思っては

いた。実は、小学生の頃父親に勧められて柔道教室の門を叩いたことがあったのだけど、元来人見

知りで気の弱い僕はあの原始的な荒々しい世界になかなか馴染めず、やがて先生にも他の生徒達に

もほとんど相手にされないようになってドロップアウトして以来、意識してそういうものから遠ざ

かってしまったのだった。

 
 そういうわけで漫画やゲーム誌を何冊かパラパラとやったら、僕は所作をもてあますこととなっ

てしまった。夕立を避けるためにこんな所に入ってきてしまったものの耐え難い不自由を感じた。

 
 今日は家に居れば良かった・・・と、後悔。


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元々僕は滅多に外出しない人間である。なのに、夏休み前に一応籍だけおいてある美術部の顧問

の先生に呼び出され、普段の不真面目な活動態度を叱咤された挙句、風景と生物、それぞれ一作ず

つの油絵と好きな画家に関することのレポートの休み後の提出というペナルティを負わされてしま

ったことにより、パソコンの持ち込みが可能な図書館でそのレポートを書いた後、画材を購入する

ために歩いてこんな街に出てきてしまったという寸法だった。


 ボケーと佇んでいたら、出入り口の自動ドアが開き、びしょ濡れになったスーツ姿の二十代後半

位の男の人が二人、ひでえことになったなあなんて言いながら入ってきた。それぞれがアタッシュ

ケースを持っていた。外回り中の営業マンのようであった。


「今日、雨降るって天気予報で言ってたか?」

「夕立はあるかもしれないというようなことを言ってましたけど、酷いですね。参りますよ」

 
 どうやら先輩後輩の間柄らしい営業マン二人組は、自動ドア付近でスーツの水滴を払いながらチ

ラチラと外に目をやり、愚痴っぽく言い合った。彼等がここに入ってきた目的は僕のものとと同じ

ようだった。

 
 レジの店員が二人組に目をやった。

 
 彼等はそれを意識してか奥の方に入ってくると、徐に雑誌なんかを手にしたが、愚痴はやまない。

「それにしてもさ、さっきのあのお茶、間違いなく出涸らしだな」

「味噌が隠し味になった味噌汁みたいでしたね、あれ。それと湯呑みが真っ赤でした」

「お茶の黄色と湯呑みの赤色で見た目オレンジジュースになってたな。チクショー、足元見やがって」

「疲れも増しますね」

「疲れたな。こんなに疲れてもボーナス貰えば正月気分」

「ボーナスがお年玉レベルってことですか?」

「・・・」
 
 二人組はここで揃ってフーと溜息をついた。

「こんなところで愚痴っててもしょうがねえな」

「そうですね」

「次のアポまではまだ時間があるからなあ・・・サテン行こうか」

「そうですね。出て右、二十メートル位先に一番近いのがありますよ」

「よし、もうどーせ濡れてんだから、そこ、行こうぜ」

「はい」

 営業マン二人組は自動ドアが開くと、それぞれ頭の上にアタッシュケースを掲げ、勢い込んで

飛び出していった。


(出て右に二十メートル位行ったところに喫茶店か・・・)

 僕はそのことが気になった。この場が気詰まりだったし、また豪雨に晒されることを差し引い

ても、そちらの方が良い選択のように感じた。

 
 ただ僕はズルであった。もしかしたら雨脚が弱まる可能性があるのではとあと五分粘ることに

決めた。

 
 五分経った。雨脚の強さは五分前の淡い期待に反しているようだったが、僕は覚悟を決めた。

 
 相変わらず難しげな表情の店員が陣取るレジの前を通り過ぎた。

 
 自動ドアが開き、どしゃ降りが眼前になった。

 途端、覚悟を決めた筈の僕は気圧された。

 
 それにしたって物凄い雨量だった。軒下にいるというのに細かな水滴がどんどん顔にかかってき

た。

 路面はちょっとした洪水になっていた。雷も相変わらずで、まるで神様が薄汚れが過ぎたこの世

に怒っているようだ、なんて大袈裟なことを考えてしまい、少し恥ずかしくなった。

 
 さあ、行くしかない。僕はバッグを頭の上に掲げ、神様の怒りの中に飛び込んだ。

 
 走った。雨の滴が激しく叩きつけてきて首が痛い。それこそ、あっ、さえいう間もなく、シュー

ズの中に水がしみ込んできた。僕を追い立てるように雷の唸る音が耳に轟いた。目線を上げ、前方

を見通そうとしたが、どうも無理。

 
 でも、僕は走った。


「神様、もういい加減許してよ」


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            第二章「ユーモア絵画」に続く

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